樹齢何千年の命に触れる瞬間を想像しながら、
もうずいぶんが経つ。
屋久島は、私にとって、未だ憧れ続ける場所のままだ。
「ひと月に35日雨が降る」という屋久島で育つものたちの中に身を置いたとき、
いったいどんなことを感じるのだろうかと、
光を浴びる目の前の屋久杉の断片に思う。
この断片だけでも、凄みがあるというのに。
屋久杉の木を剥いだままにあるこの造形物は、
(粋な木材加工集団)TIMBER CREWの小久保さんから2020年に頂いた。
その時を記憶しているのは、その前年の2019年の鹿児島での屋久杉の競市を最後に、
屋久杉は出回らなくなったことで、より貴重なものとなってしまったと教えてもらったから。
1993年に屋久島が世界遺産に認定されたことをきっかけに、2001年には屋久杉の伐採禁止、とうとう競市も終了。
素材としても木は暮らしの中に当たり前にあるようだけれど、本当は、どの木もそんなことないなぁと思うようにもなった。
まな板や家具や楽器に姿を変えた木ではなく、
また見上げたり、
雨宿りをさせてもらった木とも違うなにか。
薪ストーブを使う生活になったこともあるかもしれない。
庭に木を植えるようになったからかもしれない。
台風で大木が倒れ途方に暮れたこともある。
木を切り、運び、触り、嗅ぎ、燃やすということが
暮らしの中に入ってきたことで、
木の内側を想像するようになった。
想像するようになったが、とくに屋久杉においては、
想像し得ないこともまた感じる。
畝りは、生命の瞬間を捉え留めたカタチのままに、
ここに宿っていた(いる)生命力を今日も放つ。
さて、こんな大それたものをどう使おうか?
と当初は思ったが、なんのことはない、
さすが屋久杉で、器にもなり、オブジェにもなり、
そして時には、私のいい話し相手にもなってくれるのだった。
photo: Kentaro Kumon
2025-01-23
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